「島のきゅらむん送ります」
3月のある日、両親の郷である奄美大島に住む叔母からハガキが届きました。「きゅらむん」は「美ら物」、奄美の島グチ(方言)で本来は「きれいなもの」という意味ですが、この場合は謙遜の意味も込めて反対の「不細工なもの」という意味です。
ハガキには叔母が書いたと思しき、奄美の特産品である「たんかん」というミカンの絵もありました。どうやら「たんかん、送るよ」ということらしい。
「たんかんだ♪」
苦労人で気働きのよい叔母のことです。夫婦二人の我が家で食べきれないだろう数のたんかんを送ってくるとは思えません。箱の隙間に奄美の春を彩るきゅらむんを詰めて送ってよこすにちがいないはず。
「新糖の季節ではないし、大潮にはまだ早いからアオサ(海草の一種)でもない。二期作と言っても新米もまだ採れないから「みき(米を発酵させて作るヨーグルトのような飲料)」でもない・・・。何だろう?ふち餅(ヨモギを混ぜてついた餅をサネンの葉で包んで蒸したもの)かなぁ?」
食いしん坊の私は、でこぼこのたんかんの絵を眺めながら奄美のおいしい食べ物をあれこれ思い出していました。さんご礁で採れる魚は言うまでもなく、バナナにマンゴー、パパイヤ、島らっきょうに島味噌、苦瓜(ゴーヤ)、ヘチマ、etc.
そして何と言っても黒砂糖!
しかし、新糖の香ばしいあまーい匂いは私の中の複雑な感情を呼び起こすのです。
高校の時に叔父に連れていってもらった加計呂麻島で廃墟となった砂糖工場を見た時から、ずっとひとつの疑問が頭を離れないのです。
―なぜ、この豊かな島で食いかねるのか?
たとえ米は口に入らずとも海には魚が、山には果物や食料になる野草が、見まわせば食べるものはそこら中に溢れている。なのに、なぜ、私の両親の家族は食べるものに窮する暮らしぶりであったのか?島を離れて働かなくては家族の生活が成り立たなかったのか?
加計呂麻島は島尾俊雄氏が出撃命令を待った震洋隊の基地がある島です。父の郷里のその対岸近。そこから岬を越えた入り江の奥に母の郷里があります。どちらも島の中心部の名瀬や、その昔、西郷隆盛が住んでいた龍郷村など島の北東部からはかなり離れた南部の小さな集落です。
長じて島史に触れるうちに、さとうきび地獄と言われる薩摩藩統治と太平洋戦争という島の背負った歴史が、今でも島に生れ育った人の人生に少なからぬ影響をもたらしていると思うようになりました。軍資がほしい薩摩藩はさとうきび栽培を強行に推し進め、税はもとより生活物資も砂糖と交換だったと言います。薩摩統治下でさとうきびを栽培できる平地が少ない島南部の伝統的な自給自足の生産体系と経済が破壊されてしまったのでしょう。そして太平洋戦争とそれに続く連合軍統治の後、奄美諸島は程なく日本へ変換。
歴史のうねりに翻弄された島であるにも関わらず、歴史の表舞台に出ることが少ない奄美は人々の議論になることも少なく、経済復興のための独立した予算も少なかったのです。母たちの主食は蘇鉄の木の幹の澱粉で作った粥であったと言います。ちなみに母は昭和18年生まれです。都市部に住んでいた人で昭和20年代後半から30年代初めに母と同様の体験をしたという人に私は会ったことがありません。
叔母のよこしたハガキの「きゅらむん」を眺めながら、なぜか急に奄美が恋しくなりました。島グチで言うなら「島愛(かな)しゃ」という気持ちがこみ上げてきて自分でも驚きました。ヤマト(内地のこと)で生まれ育ち、奄美の文化や生活をほとんど知らない私にもシマンチュ―(島の人)の歴史が体のどこかに刻み込まれているのでしょうか。それが「血」というものなのでしょうか。もしかし
たら、私に限らず民族の歴史というものは無意識の深いところで受け継がれ、何かの弾みに自我の根本的なものとして意識されるものなのかもしれません。
そして、叔母も私もそれぞれが今日明日の命を心配しないで暮せる今だからこそ、島はきゅら島豊かで美しいと思えるのかもしれません。



