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ともだち100人プロジェクト

前回の「ひとりひとりのシマおこし」で「今年より少し多く人に呼びかけて、 一緒に島へ行って、みなさんに私の大好きな場所や人、島の風物を紹介するツアー を企画しています。」と書いたところ、私が呼びかける前に問い合わせをいただき、あっという間に4名の参加者が集まりました。

現実に実行するにあたって企画名が必要になってきたので「ともだち100人プロジェクト」と名づけることにしました。プロジェクトと言っても、まだ、具体的な実行プランがあるわけではありません。きっと、一緒に島に行って島の友人たちを紹介して交流の輪を広げていくうちにその先の方向性が見えてくるのではないかとのんびりと考えています。

ひとつだけ、現在、島の内外で議論されている奄美についてのさまざまな問題を解決していくには、人と人とのつながり、つまり交流の輪を広げて相互に理解を深め合う取り組みが大切だろうと確信しています。新たな行動に踏み出す前に、シマ通いを続けたこの1年半に経験した出来事から、私が考えてきた過程を振り返ってみようと思います。

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奄美への関心の高まりと思い込み批判
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「八月踊りを映像に記録して保存することに何の意味があるのですか?もっと発展させて踊りそのものを残していくことを考えないと無意味じゃないですか。」

毎年八月に瀬戸内町で行われる「みなと祭り」で瀬戸内町の各集落の人たちが古仁屋の中心部に集まって八月踊りを披露します。昨年八月、八月踊りを見学した翌朝に宿の食堂で隣の席に座った女性が言った言葉が忘れられません。

学生時代に日本各地の祭りを研究していたという、昨春、大学を卒業したばかりの若い女性でした。瀬戸内みなと祭りに日程を合わせて初めて奄美を訪れたその女性は、「ヨサコイソーランや沖縄のエイサーのように奄美もこれからどんどん若者や外の意見を取り込んで変わっていかないと廃れてしまう」といった主旨のことをさかんに話していました。

「でもね、教育委員会などで、各集落の八月踊りをビデオに収録したりして、保存活動も始まっているから大丈夫よ。」

やんわりと島でも八月踊りの保存、継承、そして発展に向けて取り組んでいることを伝えてみました。そして返ってきたのが冒頭の言葉でした。

多くの観客と参加者を意識したヨサコイソーランや復活後のエイサーと、今、奄美で踊られている八月踊りとは本質的に踊る目的が異なります。奄美の八月踊りは、今なお、祖霊やシマのカミさまたちとともに踊る、シマの中で信仰との結びつきを残した踊りです。

暮らしの中にカミを感じられにくい社会において、カミとともにある奄美の八月踊りも、時代の変化を反映して踊りはともかく唄える人が減っているのは事実です。シマの八月踊りを継承して発展させていこうとするならば、八月踊りはその目的を大きく変えて、カミと別れを告げ、観客に見せたり、踊りの出来を競いあったり、踊りの「形」を重視したものに変わっていかざるを得ないでしょう。

しかし、踊りを継承発展させることのみが唯一の正しい選択肢なのでしょうか?
カミの存在と切り離された踊りを残すことは意味がないという考え方もあるのではないでしょうか。例えば、シマの人たちが明確な意思表示をせずに自然消滅したとしても、それは残すために何もしなかったのではなくて、変わらないことを選んだということかもしれないと私は思います。

個人的には、集落それぞれの八月踊りをずっと続けてほしいと願っていますが、選択するのは他でもないシマの人たちだと思います。変わるべきだとも、変わってはならないとも、外から一方的に価値観を押しつけることではありません。たとえ、集落の八月踊りがなくなることがあっても、その選択は尊重されるべきだし、また、尊重してほしい。

もし八月踊りが途絶えたとしても、映像への記録が完了すれば学術的な研究資料も残ります。また、シマの人が望めばいつでも、沖縄のエイサーのように復活し、発展させていくことは可能でしょう。ですから、八月踊りの記録保存は大きな意味のある重要な事業です。「意味がない」と言われると「それは違うんじゃないの?」と言い返したくなります。

「意味がない」とはずいぶんと一方的な人もいるものだと、この女性が特別であるかと思われるかもしれません。でも、それほど特別な例ではありません。奄美の文化や自然環境保全など、さまざまな要素が絡み合う複合的な問題の表面だけを捉えて、島の人の意識や施策を批判したり、疑問視するような一方的な論調は新聞に掲載される記事にもよく見られることです。

そして、そのような批判の多くは、奄美における歴史的な事情と、奄美を含む日本の社会的変化のタテヨコ二つの視点が抜けていると強く感じます。そして、そのたびに「特定の現象だけを見るんじゃなくてもう少し視点を広げてほしいな」と思う一方で、ひとつひとつに対して問題の背景を説明していくのは「やっぱりたいへんだ」とも思ってしまいます。

理解を得ようとするならばきちんと説明するべきだとは十分に承知しています。
でも、南島シャーマニズムと言われるような生活に深く結びついている信仰の概念を言葉で説明するのは島の人にだって難しい。また、社会的、歴史的な要因が絡み合っている問題の背景をひとつずつ確認していくことはかなりの労力が必要です。さらに歴史的な問題を考えなければならない時に、島が経験した重い歴史について、無意識のうちに「過去のことはあまり多く語りたくない」とはたらく感情面の問題もあります。一方的と感じるような意見に出会っても、違和感を感じつつ、島の側から積極的に反論や説明をすることはあまり多くありません。

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気づき再び傷つく島の同世代たち
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やはり昨年の八月に奄美を訪れた時、島の友人に誘われて彼らの同窓会に参加したことがあります。島の人たちの同窓生のつながりはほんとうにうらやましくなるくらいに強い。誰かと知り合いになると、次から次へと仲間を紹介されてどんどん知り合いが増えていきます。その夜も友人を介して会った人たちはあっという間に私を受け入れてくれました。

楽しくて、私はいつのまにか島ゆむた(島の方言)を交えながら積極的に会話に参加していました。島のお年寄りなどは、わたしが島ゆむたまじりに話すと「あげー、かんしんやー(まあ、感心なことだ)」ととっても喜んでくれるのです。でも、同世代が集ったその夜は予想もしなかった反応に遭遇しました。

まるで、ほんとうのクラスメイトであったかのように話が弾み、すっかり打ち解けた頃、メンバーの一人が「シマゆむたを家で自然に覚えたわけじゃないでしょう?大人になってからシマ唄なんかを勉強して覚えたんでしょう?」としきりに尋ねてはじめました。「ゆむたは親たちが話しているのを聞いて、自然にわかるようになったんですよ」と答えたのですが、彼は納得できないようすで何度も何度もムキになって尋ねてきます。どうしても私から「大人になってから勉強して覚えた」 という答えを聞きたかったようです。

「みどりさん、ジェラシーだよ。」
傍らにいた友人が私たちのようすに気づいて、そっと教えてくれました。
「自分たちは島言葉は恥ずかしいと教えられてきたのにのにみどりさんが何の苦もなく話すからきっと嫉妬したんだな。気にするな。」

本土復帰後の奄美で方言排斥運動があったことは知っていました。しかし、そのことが個人にもたらす影響の深さを、私はこの時に初めて現実の問題として実感したのす。

戦後の米軍による占領を経て、悲願であった本土復帰を果たした後、島の人たちが最も力を入れたのは子どもたちの教育でした。いち早く民主主義の新しい教育が始まった本土に遅れをとってはならない。島の人たちの切実で一途な思いの背景には、子どもの教育こそが本土との情報格差をなくし、支配や圧政から生活を守る術であるという、明治維新後に展開された黒糖勝手売買運動以来の歴史的な教訓がありました。

また、復帰直後の奄美は物資の不足が深刻でたいへん困難な時代でした。
仕事を求めて本土へ渡った島出身者が、まず困ったことは言葉の問題です。仕事を覚えようにも標準語を話せないと質問をすることもできません。もっと深刻だったのは、当時、まだ米軍の占領下にあった沖縄や外国からの密航者と間違われてしまいかねないことです。私も復帰直後に本土へ出てきた叔父たちから、食堂で「琉人支那人お断り」の張り紙があり一言もしゃべらずに隣の人が食べているうど んを指差して注文して黙って大急ぎで食べたという話を聞いたことがあります。

本土並みの教育を実現したいという熱情が次第に本土との同化教育となり、方言排斥運動が急速に進んだ背景には本土に渡り言葉で苦労をさせたくはないという親たちの気持ちも強く作用したことでしょう。

つまり、方言排斥運動は奄美の地域的な理由だけではなく、当時の日本社会のあり方、奄美の人たちが過去の体験などまざまな要因が絡み合い、急進的なものとなっていったのだと考えられます。

具体的にどのようなものであったかと言いますと、学校で方言を話すと罰せられる。例えば放課後に「方言札」と呼ばれる「私は方言を話しました」と書かれた札を下げて廊下に立たされたり、クラスメイト全員の前でものさしで叩かれたのだそうです。また、児童に対して、方言を話したクラスメイトを教師に密告することを奨励するようなこともあったと聞きます。徹底した方言排斥が行われたのは復帰後から昭和40年代にかけてだと思いますが、その後の世代にも、「方言を話すことは恥ずかしい、島は遅れている」という意識を強く残し続けてきました。

ところが経済発展優先、中央集権の社会から環境持続的発展、地方分権の社会へと世の中の意識の変化していくにつれて、奄美の言葉、文化、自然への関心と評価も高まってきています。必然的に、島の人たちの環境や文化への意識を問われる機会も増える。でも、急に価値観の変化を求められても、家庭の担い手である働き盛りの世代が日々の暮らしを急に方向転換することは容易ではありません。

特定の何かに原因を求めることができず、明確に意識しないまま、言葉にならずに胸の内深くへ沈められた複雑な心情が、島の同世代たちの胸に形のない棘として突き刺さっている。そのように感じた同世代から投げかけられた思わぬ言葉でした。

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結いの島で寄(ゆ)らい分かち合う関係を目指して
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いろいろと、まるで何もかもわかっているように書いていますが、私もシマへ通い始めてしばらく経った頃に、自らの浅い理解と思い込みでシマの人たちに不快な思いをさせてしまった経験が何度かあります。

「島のことを何もわかってないくせに!」と叱られたこともありますし、「言ってもわからないから言わない」と黙られてしまったこともあります。せっかく仲良くなったのに、いつのまにかスッと遠ざかってしまった人もいます。

何度も島に通って、説明する立場におかれることも増えた今では、言葉にして説明することがとても難しかったのだと理解できるようになりました。でも、当時の私は自らの思い込みなどまったく自覚していないのですから、なぜ、不快感を示されるのか、話を続けることを拒絶されるのか、まったくわからずにいました。

「島に住んでいないとわからない」といった拒絶の言葉で話を切られると、こちらも「わからないから話し合うのではないのか?それを説明もしないなんて、島の人はなんて閉鎖的なんだろう」と思ってしまいます。危うく自らの無理解の上に誤解を重ね、島の人たちとの間に見えない壁を感じる悪循環に陥りかけてしまったこともあります。

私自身の経験を振り返ってみますと、単に短期間の観光目的で奄美を訪れている間は島の人たちとの葛藤は生じませんでした。奄美の文化や自然に向けてより深い関心を持ち始め、島の人との交流が増えるにしたがって見えない壁と距離を感じるようになったのです。そして、その壁を越えて距離を埋めてくれたのも島の人たちとの交流でした。

もちろん、この稿を書いている現在もわからないことだらけであることには変わりありません。でも、おそらく半年前なら、今回のように言葉で説明するのがとても難しいテーマについて書いてみようと挑戦する気にはなれなかったと思います。島で少しずつ積み重ねてきた人々との関わりが私を奮い立たせてくれていることは確かです。

奄美の自然環境や文化、歴史と言った地域事情をめぐる認識の違いから誤解や葛藤が生じても、互いに胸の内をさらけ出して話し合える信頼関係があれば、それは自ずと互いの理解と共感に導かれる。この確信が奄美に通ったこの一年余りで私が得た最も大きな、そして大切なものだったと思います。

さて、来週はいよいよ「ともだち100人プロジェクト」の第1回目のツアーが始まります。今回は私の考えがまとまっていないうちに参加者が集まったので、とにかくやりたいことが盛りだくさん。寝る暇もないほどです。頑張っている島の同世代たちともできるだけ多く会ってくるつもりです。

きっと、奄美でまた新しい何かが待っている。参加されるみなさんはどんなことを発見するでしょう?それは次回にご報告することにしましょう。

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